安永健太さん死亡事件:民事裁判が再開しました。
2009年4月から始まった民事裁判は、多くの皆さんのご協力で勝ち取った 付審判裁判(刑事裁判)の審理に伴い一旦中断していましたが、3月29日の付審判裁判の終了で再開されました。
6月10日の期日では、弁護士と健太さんの父親である原告の安永孝行さんの意見陳述が行われました。
安永さんの意見陳述では、再開された民事裁判に対する期待や、付審判裁判(刑事裁判)に対する感想が述べられました。
意見陳述 原告 安永孝行
1 刑事裁判に対する感想
私たち遺族は、健太の身に何が起こり、どうして死ぬことになったのか、その「真実を知りたい」と思い、裁判を起こしました。民事裁判のみならず、付審判を請求したのもそのためです。しかし、刑事裁判では健太が死んだ点は問題とされませんでしたし、殴ったかどうかという点だけが争点とされました。私たちが知りたかったのは、殴ったかどうかだけではありません。警察官らの行為は「保護」とはいえない違法な行為だったのではないか、その違法な行為により健太は死んでしまったのではないか、という点を知りたかったのです。
判決では、殴ったかどうかという判断に終始し、それ以外のことは無視されました。これでは、何のために裁判を起こしたのか分かりません。私たちの「真実を知りたい」という思いは満たされないままです。 ところで、刑事裁判では、被告人である松雪は無罪とされました。私は被告人が無罪となったことに大変失望しましたが、-番失望したのは判決の内容です。警察官側の証言は全て信用できるとされ、こちら側の証人の証言は信用できないとされました。なぜ、警察の言うことは信用できるのでしょぅか。私の目からすると、警察ほど信用できないものはありません。それに、警察という巨大な組織に立ち向かい、勇気ある証言をしてくれた人たちに対して、なぜ「信用できない」と判断することができるのでしょうか。この方たちにとって、警察と対峙するメリットはありません。自分の良心に従って証言してくれたのです。これほど信用できるものはないはずです。私には、どうしてこのような判決になったのか理解できません。刑事の裁判官が警察をかばっているのではないか、そんな感想すら持ちました。
刑事裁判を全くやらない方が良かったとはいいません。事件当時の健太の行動、警察官らの行為について、その一部は知ることができたと思います。しかし、まだ不十分です。健太が警察官の違法行為によって死ぬことになったのではないか、という一番知りたいところが、まだ闇の中です。
このままでは健太は浮かばれない。これが刑事裁判に対する私の感想です。
2 現在の心境 .
私の今の心境は、警察やあのような判決を出した裁判所に対する不信感でいっぱいです。
(1)事件当日、警察は、私に「健太がバイクを蹴つて逃げたから取り押さえた」と説明しました。また、健太の伯母は、当日、警察から「アルコールや薬物を疑った」と説明されました。私たちは、その日、まるで健太が犯罪を犯したかのような気持ちでいたのです。
それが、次の日以降、急に「保護」という言葉が出てきました。警察は、「保護しようとしたら死亡した」と言ぅのです。これは誤魔化しです。私は、警察は健太を「逮捕」しようとしたのだと確信しています。だからこそ、行き過ぎた行為があり、健太は死亡したのです。死亡させるような行為を「保護」と言えるはずがありません。
(2)また、事件現場には現場を映していた交通監視カメラがありました。これは、健太が取り押さえられているところが映った映像を見ていたという警察職員の供述調書が証拠として出されていることからも明らかです。
捜査を担当していた検察官も、刑事裁判でカメラの映像を見ることができる、ということを言っていました。
しかし、刑事裁判ではカメラについては一切触れられず、裁判でカメラの映像が明らかにされることもありませんでした。
私は、カメラの映像が出てこなかったのは、警察に都合の悪い事実が映っているからだと思います。映像を見たのに録画していないというのはおかしいです。カメラの映像を見れば、何があったかはっきりするはずです。警察にやましいことがなければ、すべての証拠を出して真実を明らかにすべきだと思います。
(3)また、私は、このような事件を起こしていながら、警察が全く反省している様子がないことにも憤りを感じています。警察が反省しない以上、同じような事件はまた発生するでしょう。そうなったら健太は文字どおり犬死にしたことになると思います。
刑事裁判において、被告人の松雪は、保護行為としてやり過ぎたと思うところはない、知的障害だと知っていたとしても同じことをしていた、というようなことを証言していました。知的障害者に対する保護と一般人に対する保護は同じだ、ということでしょうか。おそらく警察内部で綿密に打合せをしたうえでの証言でしようから、多くの警察官がそのように考えていることでしょう。
しかし、これは間違った発想です。知的障害がある人に対して「自分が知的障害であることを明らかにしろ」というのは不可能です。知的障害者には何の罪もありません。知的障害があることを把握し、障害者に応じた対応をするのは警察の義務です。今回の件も、健太の様子をよく見れば知的障害があること分かったはずです。警察はそのような義務を放棄して、知的障害者側に責任を負わせているのです。
警察がこのような考え方をしている以上、知的障害者やその家族は安心して生活をしていくことはできません。そういう意味で、今回の裁判は、私だけの戦いではなく、多くの知的障害者やその周りの方々のための戦いであると感じています。
3 健太ヘの思い
私はもともと会社に勤めていたのですが、離婚をして私が健太の面倒を見ることになったため、会社を辞めて独立してダンプの運転手の仕事をしながら、健太の面倒を見ました。
健太は私の生活の中心でした。健太は優しい子で、誰とでも仲良くなる性格でした。私も、そんな健太と話をするのが楽しく、私の生きがいでもありました。
裁判で勝っても、健太は戻ってきません。しかし、健太の顔を思い出すたぴに、私はたまらなくなります。そして、裁判の場で全てを明らかにしなけれぱならない、第2、第3の健太を作らないためにもがんばらなければならない、という気持ちになるのです。
4 民事裁判に対する期待
(1)民事裁判では、刑事裁判とは違って、殴打行為に限らず、全体として違法な行為があったかどうかが問題になる、と聞いています。また、健太が死んだことについて警察に責任があるかどうかも問題になる、と聞いています。
私が、裁判において問題にしたかったのは、まさにその点です。殴ったかどうかを問題にしたかったのではありません。警察による「保護」とはいえないやり過ぎた行為によって、健太は死んだのではないか、この点を明らかにして欲しいと思っています。
(2)それと、もう1つ。本件では、健太がバイクを蹴ったことが問題とされていましたが、仮に蹴ったとすればそこには何か原因があったはずです。何の原因もなく他人や物に危害を加えるはずはありません。また、健太が暴れていたことも問題とされていましたが、それも原因があったはずです。知的障害者は何の原因もなく暴れるはずはありません。知的障害者をよく知っている人であれば分かるはずです。彼らの心は純粋です。知的障害者に責任を求めるべきではありません。
今回の事件で責任を負わなければならないのは警察です。私は今回の裁判でそのことを強く訴えたいと思います。
(3)私が伝えたかったことは以上です。裁判官のみなさん、公正な裁判を、そして納得のいく裁判をお願いします。
6月10日の期日では、弁護士と健太さんの父親である原告の安永孝行さんの意見陳述が行われました。
安永さんの意見陳述では、再開された民事裁判に対する期待や、付審判裁判(刑事裁判)に対する感想が述べられました。
意見陳述 原告 安永孝行
1 刑事裁判に対する感想
私たち遺族は、健太の身に何が起こり、どうして死ぬことになったのか、その「真実を知りたい」と思い、裁判を起こしました。民事裁判のみならず、付審判を請求したのもそのためです。しかし、刑事裁判では健太が死んだ点は問題とされませんでしたし、殴ったかどうかという点だけが争点とされました。私たちが知りたかったのは、殴ったかどうかだけではありません。警察官らの行為は「保護」とはいえない違法な行為だったのではないか、その違法な行為により健太は死んでしまったのではないか、という点を知りたかったのです。
判決では、殴ったかどうかという判断に終始し、それ以外のことは無視されました。これでは、何のために裁判を起こしたのか分かりません。私たちの「真実を知りたい」という思いは満たされないままです。 ところで、刑事裁判では、被告人である松雪は無罪とされました。私は被告人が無罪となったことに大変失望しましたが、-番失望したのは判決の内容です。警察官側の証言は全て信用できるとされ、こちら側の証人の証言は信用できないとされました。なぜ、警察の言うことは信用できるのでしょぅか。私の目からすると、警察ほど信用できないものはありません。それに、警察という巨大な組織に立ち向かい、勇気ある証言をしてくれた人たちに対して、なぜ「信用できない」と判断することができるのでしょうか。この方たちにとって、警察と対峙するメリットはありません。自分の良心に従って証言してくれたのです。これほど信用できるものはないはずです。私には、どうしてこのような判決になったのか理解できません。刑事の裁判官が警察をかばっているのではないか、そんな感想すら持ちました。
刑事裁判を全くやらない方が良かったとはいいません。事件当時の健太の行動、警察官らの行為について、その一部は知ることができたと思います。しかし、まだ不十分です。健太が警察官の違法行為によって死ぬことになったのではないか、という一番知りたいところが、まだ闇の中です。
このままでは健太は浮かばれない。これが刑事裁判に対する私の感想です。
2 現在の心境 .
私の今の心境は、警察やあのような判決を出した裁判所に対する不信感でいっぱいです。
(1)事件当日、警察は、私に「健太がバイクを蹴つて逃げたから取り押さえた」と説明しました。また、健太の伯母は、当日、警察から「アルコールや薬物を疑った」と説明されました。私たちは、その日、まるで健太が犯罪を犯したかのような気持ちでいたのです。
それが、次の日以降、急に「保護」という言葉が出てきました。警察は、「保護しようとしたら死亡した」と言ぅのです。これは誤魔化しです。私は、警察は健太を「逮捕」しようとしたのだと確信しています。だからこそ、行き過ぎた行為があり、健太は死亡したのです。死亡させるような行為を「保護」と言えるはずがありません。
(2)また、事件現場には現場を映していた交通監視カメラがありました。これは、健太が取り押さえられているところが映った映像を見ていたという警察職員の供述調書が証拠として出されていることからも明らかです。
捜査を担当していた検察官も、刑事裁判でカメラの映像を見ることができる、ということを言っていました。
しかし、刑事裁判ではカメラについては一切触れられず、裁判でカメラの映像が明らかにされることもありませんでした。
私は、カメラの映像が出てこなかったのは、警察に都合の悪い事実が映っているからだと思います。映像を見たのに録画していないというのはおかしいです。カメラの映像を見れば、何があったかはっきりするはずです。警察にやましいことがなければ、すべての証拠を出して真実を明らかにすべきだと思います。
(3)また、私は、このような事件を起こしていながら、警察が全く反省している様子がないことにも憤りを感じています。警察が反省しない以上、同じような事件はまた発生するでしょう。そうなったら健太は文字どおり犬死にしたことになると思います。
刑事裁判において、被告人の松雪は、保護行為としてやり過ぎたと思うところはない、知的障害だと知っていたとしても同じことをしていた、というようなことを証言していました。知的障害者に対する保護と一般人に対する保護は同じだ、ということでしょうか。おそらく警察内部で綿密に打合せをしたうえでの証言でしようから、多くの警察官がそのように考えていることでしょう。
しかし、これは間違った発想です。知的障害がある人に対して「自分が知的障害であることを明らかにしろ」というのは不可能です。知的障害者には何の罪もありません。知的障害があることを把握し、障害者に応じた対応をするのは警察の義務です。今回の件も、健太の様子をよく見れば知的障害があること分かったはずです。警察はそのような義務を放棄して、知的障害者側に責任を負わせているのです。
警察がこのような考え方をしている以上、知的障害者やその家族は安心して生活をしていくことはできません。そういう意味で、今回の裁判は、私だけの戦いではなく、多くの知的障害者やその周りの方々のための戦いであると感じています。
3 健太ヘの思い
私はもともと会社に勤めていたのですが、離婚をして私が健太の面倒を見ることになったため、会社を辞めて独立してダンプの運転手の仕事をしながら、健太の面倒を見ました。
健太は私の生活の中心でした。健太は優しい子で、誰とでも仲良くなる性格でした。私も、そんな健太と話をするのが楽しく、私の生きがいでもありました。
裁判で勝っても、健太は戻ってきません。しかし、健太の顔を思い出すたぴに、私はたまらなくなります。そして、裁判の場で全てを明らかにしなけれぱならない、第2、第3の健太を作らないためにもがんばらなければならない、という気持ちになるのです。
4 民事裁判に対する期待
(1)民事裁判では、刑事裁判とは違って、殴打行為に限らず、全体として違法な行為があったかどうかが問題になる、と聞いています。また、健太が死んだことについて警察に責任があるかどうかも問題になる、と聞いています。
私が、裁判において問題にしたかったのは、まさにその点です。殴ったかどうかを問題にしたかったのではありません。警察による「保護」とはいえないやり過ぎた行為によって、健太は死んだのではないか、この点を明らかにして欲しいと思っています。
(2)それと、もう1つ。本件では、健太がバイクを蹴ったことが問題とされていましたが、仮に蹴ったとすればそこには何か原因があったはずです。何の原因もなく他人や物に危害を加えるはずはありません。また、健太が暴れていたことも問題とされていましたが、それも原因があったはずです。知的障害者は何の原因もなく暴れるはずはありません。知的障害者をよく知っている人であれば分かるはずです。彼らの心は純粋です。知的障害者に責任を求めるべきではありません。
今回の事件で責任を負わなければならないのは警察です。私は今回の裁判でそのことを強く訴えたいと思います。
(3)私が伝えたかったことは以上です。裁判官のみなさん、公正な裁判を、そして納得のいく裁判をお願いします。
by kyosarenfukuoka
| 2011-06-13 11:53
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